2011年6月21日火曜日

濹東散歩


Hikifune, Tokyo (東京・曳舟)

Tateishi, Tokyo (東京・京成立石)

Hato no machi, Tokyo (東京・鳩の街)

Tamanoi, Tokyo(東京・玉ノ井)

Tamanoi, Tokyo(東京・玉ノ井)


京成立石、鳩の街、そして永井荷風の「濹東綺譚」の舞台になった東向島の玉ノ井を散策。
玉ノ井と鳩の街は、迷路のように路地が入組み、間口の狭いスナックや旧カフェーだったと思われるタイル張りの建物も残存していて、昭和にタイムスリップしたような空間だった。京成立石の飲んべ横丁の猥雑な雰囲気が素敵で、しばし暑さを忘れる。しかし完成間近の東京スカイツリーのでかさが半端なく、濹東の路地を圧迫している感じがした。

2011年6月16日木曜日

Taedonggang Beer (DPR.Korean Beer) 大同江麦酒


Taedonggang Beer (DPR.Korean Beer) 大同江麦酒

テドンガン麦酒
【原産国】北朝鮮
【アルコール度数】4.4%
【製造】大同江ビール工場
【雑感】烏頭山統一展望台のお土産コーナーで購入した北朝鮮産ビール。泡立ちも良く、コクがあってなかなか美味しい。韓国産ビールよりも口に合う。

渡韓 2010年4月 烏頭山統一展望台

昨年4月の韓国旅行のこと(無精なので、今になって書く)

ソウルから一番手頃に北朝鮮を見る事ができるのが「烏頭山(オドゥサン)統一展望台」。
北朝鮮国境といえば一般的には板門店が有名だけれど、ツアー客しか受け入れてないので断念 (日本の旅行会社からでも簡単にツアー参加できる)。
こちらは一人でも外国人でも関係なく気軽に訪れることができるので、気ままにフラッと行ってきた。ソウルから電車に乗って1時間、それからタクシーで20分。あっという間に到着。感覚としては自分の家から新宿や上野に出かけるような感じ。首都ソウルからこんな近くに北があるのは驚いた少々。


展望台3Fで模型やビデオ解説を見る。
烏頭山統一展望台はちょうど南北を分断する臨津江(イムジン河)とソウルの中心を流れる漢江(ハンガン)の合流地点にあって、標高118mの古代の城跡に建てられている。臨津江を挟んで展望台から対岸の北朝鮮まで3.2km。川幅が一番狭い地点で460m。靄がかかっていたものの、肉眼ではっきりと対岸を捉える事が出来た。
対岸の北朝鮮黄海北道開豊郡には宣伝村があって、4000人が住んでいて65%軍人、35%農民の割合となっている。


観光地でお馴染みの硬貨を投入する望遠鏡(500ウォン)で、宣伝村の風景を見ることが出来る。
水田が広がっていて、灰色の無機質な集合住宅のような建物が数棟立ち並んでいた。結構な人数の農民や子供なども確認できる。
でも人がいるんだけど、農作業をしている者、リアカーを引いている者、農道を歩いている者、全員単独行動だった。まあ普通なら夫婦、家族、カップル、友人、ご近所さん、2,3人で固まっていてもいいはずなのに、みんな独り。
この宣伝村の人々はただ対岸の観光客に普通に生活しているのを見せるのが仕事なのだろう。なかなか興味深かった。


展望台1Fや2Fには北朝鮮の生活用品などが展示されていたり、土産コーナーでは北朝鮮の焼酎や紙幣やグッズなども買えることができ、お手頃に楽しめる。


【行き方】(為替 ¥100 - 1200w)
片道料金
京義線 ソウル駅から金村駅 (1500w) 約1時間
タクシー 金村駅から烏頭山統一展望台(9500w) 約20分
烏頭山統一展望台入場料(2500w)

ポイントとしてはタクシー運転手に行き先が通じない可能性があるので、あらかじめメモ帳に「烏頭山統一展望台 오두산 통일전망대」、帰り用に「金村駅 금촌역」などハングルで目的地を書いておくと、あとは運転手にそのメモ帳を見せればいいので間違いがおこらない。ハングルも記号だと思って書けば、意外と簡単に書ける。

2011年6月6日月曜日

藤沢 小鳥の街


 先日、「小鳥の街」と呼ばれていた神奈川県藤沢市にある特飲街を歩いた。
 藤沢銀座通り商店街の路地を入った一角に、独特なアーチ状の入口を構えた飲食店街が現われる。初めてこの場所を歩いた10年ほど前はまだ大規模な飲食店街が残っていたのだけれど、再開発が進みマンションが乱立して、現在は朽ち果てたこの一角しか残されていない。
 抜け道になっているらしく人通りは結構あって、通りがかった地元民に話を聞く事が出来た。その人によると、昔は赤線(#1)だったようだ。
 数年後にはこの一角も再開発で消えると思うと寂しい。


 #1赤線・・・GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間に、半ば公認で売春が行われていた日本の地域である。戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるという。終戦後のカストリ雑誌などでは「特飲街」(特殊飲食店街の略)という表現が用いられており、「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買事件などが大きな問題になった1950年代以降である。 (Wikipediaより)

2011年6月4日土曜日

岡山旅行 京橋を渡る


「郷里の町を貫流する大川が、町の真ん中で三つに分かれて、間もなく下流でまた一筋に合流する。その三本の川の間に出来た二つの島を東中島、西中島と呼び、何れも表通りを除く島全体が遊郭である。夜になると、鉉歌(げんか)の声が暗い川波の上を伝って流れるのである。
 三つの川に架かった橋は、京橋、中橋、小橋と云い、両端の京橋と小橋の下はいつも水が流れているけれども、中橋の下はふだんは一面の磧(かわら)、夏には雑草が生い茂り、冬は枯草の根元を頬白や鷦鷯(みそさざい)が駆け廻っている。
 中橋の、西中島の橋詰に稲荷の祠があって、綺麗な女の御詣りが絶えない。私の婆やは、どう云う心願があったのか知らないが、秋の薄寒い日暮れに、私の手を引いて、片手に油揚げをさげて、そお稲荷様の祠に参詣した。」
 
 内田百閒「稲荷」(ちくま文庫 内田百閒集成13「たらちおの記」収録)より抜粋




「たまたま門口に立出る娼妓を見るに紅染の浴衣にしごきを巾びろに締め髪をちぢらしたるさま玉の井の女に異らず。」

 永井荷風 「断腸亭日乗」1945年6月21日



 昨年の夏に訪れた岡山のこと
 少年時代の内田百閒がしばしうっとりし、戦渦の東京から逃れた永井荷風が東京・玉ノ井遊郭を思い出した、岡山の旭川に浮かぶ二つの中州(東中島と西中島)にかつて存在していた中島遊郭。
 当時の人たちは「京橋を渡る」と言うのを、遊郭へ遊びにいく際の隠語に使っていたようだ。
 売春防止法が成立された1958(昭和33)年以降は廃れていき、現在では静けさに包まれ、人々から忘れ去れたもの悲しい風情が漂っている。かつて遊郭だったと思われる古い家屋がいくつか現存していて、一瞬当時の華やいだ世界に迷い込んだ気がした。(2010年8月30日探訪)